「マザー・テレサへの旅路」

zabbon2006-04-14

今日、「ああ、信仰の薄い者たちよ。何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって、思いわずらうな。」という、聖句に出会いました。「マタイによる福音書」第6章のイエスの言葉で、知人に借りた「マザー・テレサへの旅路―祈りと愛に触れた日々」という本で出会った言葉です。
これを目にした時、zabbonの煩悩だらけの毎日が少々恥ずかしく後ろめたく感じました。この前も、シャンパンが飲みたいからマグロカツだのと、飲むものと食べるものを決めることで思いわずらっていましたが、そういう思い悩みって年がら年中のことだし、それは、あまりにも煩悩まみれなので、反省すべきなのではないだろうか…と。
でも、その聖句の真意は、実は、
「狭い自意識にとらわれるのではなく、神の導きを信頼せよ!人間的慮りではなく、神の配慮を信頼するのだ。」ということなんだそうです。 (ここでzabbonの生活習慣への戒めではなさそうなことがわかり、許された気がしました。)
そして、こう続きます。
「人間のこざかしい知恵で対処する時は、将来の予測がつかず不安に陥るものだが、自分の人生を導く「大いなる存在」を受け入れた時に、これらは雲散霧消するのではないだろうか」
なるほど〜。そうなんだ〜、と悟りを得た境地。
例えば、人生の大きな目的の1つとして「幸せになる」というのがあるけど、神様の視点からは、それが必ずしもお金や権力とイコールではないということ、だから、「幸せになる」ために、必要なプロセスがお金持ちになることなら、富を与えてくれるし、試練が必要なら苦難を与えてくれる。そして、いずれも神様のお導きであり、最終的には霊的成長という至上の幸せが約束されている、ということなんだろうと思います。
つまり「神様の視点からは、幸福も困難も、同様に感謝すべき事柄である」ということなんだけど、この発想って、うまくいかないことづくめの日々を生き抜くための大きな支えに、確実になると思います。
思えば、心を痛めている時は、良くも悪くも鋭敏になって、他者の言葉を勝手に曲解して落ち込んだり、かと思えば、さりげない励ましの言葉が心に浸みて涙が出たりして、感情の襞が深く細かくなる気がしますが、こうした不幸な経験下の繊細な感情の動きが、人格が向上を促すのであれば、やはり、何もなかった日々よりも試練と共にいた日々に感謝する、というプラス思考の自分になれるんじゃないかな、と思います。

とはいえ、zabbonの本音としては、辛い思いを通じて幸せになるのはいやだなぁ。成長するために不幸をお与え下さい、などと徳川家康みたいなことはとうてい祈れないもの。
zabbonから神様へのお願いは、どちらかといえば「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」です。
   …今日は、スピリチュアルな考えに触れて、少しは霊的成長ができた…かな…